アドラー心理学の「共同体感覚」と「貢献感」が腑に落ちた気がしました

道を歩いていて
ふとした
瞬間に

岸見一郎さんの
『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』
に出てくる

「共同体感覚」
「貢献感」


腑に落ちた
気がしました。

パパちです。

◇◇◇

長くなるので
結論だけ言ってしまうと

『「ザ・マネーゲーム」から脱出する法』
で言うところの

「お金は幻想である」
「この世のすべては、ホログラムでできている」

という前提に立つと

自分がこの世界にただ存在していることが
貢献になっているのではないか

ということです。

心屋仁之助さん
言うところの
「存在給」とも言えるかもしれません。

◇◇◇

「おりがみ劇場」
を例にしてみます。

パパちが
おりがみで動物を折るとします。

そして
ひとつの世界観の中で

その動物たちが
日々の生活を送るとします。

そのとき

おりがみの世界(「おりがみ劇場」)は
一つの共同体
だと考えられます。

すると

おりがみの動物たちにとっては
その「おりがみ劇場」の世界が
すなわち世界全体となります。

もうちょっと
突っ込んでみます。

おりがみのペンギンが
いるとします。

パパちにとっては

そのペンギンは
「おりがみ劇場」の中の
欠かせない一つのピースとなります。

パズルのピース。

ただそこに存在しているというだけで
共同体に貢献しているのです。

そのペンギンが
すごい特技があろうがなかろうが
関係ありません。

パパちの考えたキャラ設定
どおりのペンギンは
そのままで完全なのです。

映画で
例えてみると

主役も脇役もエキストラも
CGも背景も建物も
空も海も

映画を構成するすべての要素が
欠かせない
一つのピースとなります。

どれが欠けても
映画に影響が出ます。

共同体感覚は宇宙にまで及ぶ
というのと同じ感覚です。

そんな風にして
考えてみると

パパちが
パパちとして
ただいるだけで

共同体に貢献している
と言えるのではないだろうか

ということです。

ペンギンが
「自分はキリンになりたい」
と言ったとしても

パパちは
「ペンギン」として
その世界に存在させたのです。

ペンギンそのもので
いいのです。

長々書きましたが

道を歩いているときに
ふっと
そんな感覚が降りてきました。

文章にすると
長いですけど

感覚としては一瞬でした。



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です