壮大なフィクションの中で

思ったことを
そのまま表現するのは、

なんというか、
気恥ずかしくて
勇気がいる。

ちょっとオブラートに包んでみたり、
あまり関係のない話題の中に
そっと忍ばせてみたり。

その時点で
できる範囲で表現できるものが
ベスト(最善)だと思ってみたり。

何かの本で、
「ざわざわ」するものがあれば、
それはやってみたい証拠、

というのを読んだ。

ざわざわ
すること。

気になって仕方ないこと。

たとえ気恥ずかしくても、
ちょっと勇気がいっても、

そういった
ちょっとしたことって
やってみる価値はあるかな、
(プチバンジー)

と思う。

あたまに浮かんだことを
そのまま表現するのは、
むずかしい。

たとえば、
動物のゾウが
ぱっと、あたまの中に浮かんだとして、

文字で書き起こしてみる。

それは、
太くて大きくてごつごつしたもの。

それでは、
ゾウの脚しか
表せていないかもしれない。

また、それは、
ひらひらと揺れ動くもの。

ゾウのしっぽしか
見えてこないかもしれない。

でも、
そんな風にして、
何度も角度を変えて表現していると、

長い時間をかけて、
ゾウの全貌が
浮かび上がってくるかもしれない。

それが、
数か月かかるのか、
数年かかるのか分からないけど。

ちょっと
思い出したこと。

漫画版『風の谷のナウシカ』
のイメージ。

(ちょっとネタバレ含むかも)
(記憶もちょっとあいまい)

マスクなしでは人間が
呼吸もできない瘴気を放つ森、
腐海(ふかい)。

それが、現代において、
何を意味するか、
みたいな文章を読んだことがある。

ナウシカの世界観に
重ね合わせて。

たとえば、
ある特定の病気。

人間は、それを忌み嫌い
ある意味「腐海」のように
焼き払おうとする。

しかし、その病気(腐海)は、
もしかすると、血液(この世界)を
浄化しようとする装置ではないか。

という趣旨。

漫画版ナウシカの最後では、
実は、ナウシカ自身が
過去の人によって

「造られていた」ことに気づく。

ナウシカを含め、
その世界の人間自身が、

壮大な時間をかけて
この世界を浄化するための
一部でしかない。

このあたりの世界観は
とても深い。

同時に
考えたこと。

ノンフィクションの現在の世界
そのものが、実は、
壮大なフィクションである。

というもの。

たぶん量子力学とか、
そのあたりの世界の考え方
だったと思う。

だれかが何かで
そんなことを言っていた。

まるで映画を観るように、

現実世界を生きている
主人公(自分)がいて、

同時に、
その映画を観ることを
選択した自分がいる。

ざっくりそんな内容。

さっきのナウシカにしても、
似たようなもので、

なんというか、
入れ子状のようになっている。

そんな
世界の捉え方が
おもしろいなと思う。



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