木を見て森をくぐり抜ける

木を見るのが好き。

道を歩いていたり、
電車に乗っていたりして、

木を見つけると、
つい見てしまう。

通りすがりに、
大きなくすの木を見つけて、
ふらっと神社に寄ってみたり。

背の高い木を
見上げてみるのもいいし、

木の根元の
苔を見るのも楽しい。

山の方にまで行かなくても、
街中でも案外、

木はある。

「木を見て森を見ず」
ということわざがある。

ものごとの細部にとらわれて、
全体を見失うこと。

もともとは、

フランス語の
「木はしばしば森を隠す」
から来ているらしい。

また、
「木を隠すなら森の中」
という言葉も聞く。

ものを隠すなら
同じようなものの中に、という意味。

推理小説
『ブラウン神父の童心』(1911年発表)
が出典らしい。

正確には、
「木の葉を隠すなら森の中」
という表現。

最近、

物語を通過する、
というキーワードが気になっている。

それは、
映画でも小説でも演劇でも
何でもいいんだけど、

ある物語なりストーリーがあって、
その中を通過することによって

新たな価値観を獲得する。
疑似体験をする。

というもの。

もちろん、
そういったものを通過しなくても
生きていける。

でも、

物事の多面性や、
過去の人が感じた心情などを
垣間見ることで、
(インストールして)

想像力の欠如からくる
不都合を回避できるかもしれない。

豊かな世界が
広がっていくかもしれない。

あるいは、
ストレートに伝えるよりも、

より感覚的に、
直感的に
ものごとを伝えられるかもしれない。

頭で理解することと、
身体で感じる(腑に落ちる)ことは、
大きく異なる。

たとえば、
頭で考えずに感じるんだ、
と言うより、

映画「燃えよドラゴン」を観て、
ブルース・リーの台詞を通した方が
より伝わる。

「Don’t think. feel!」
(考えるな、感じろ!)

そして、
その後の場面。

月を指差し、
指を見るんじゃない、月を見るんだ。
と続く。
(実際の台詞はちょっと違うけど)

そんな風にして、

木(場面)を見ながら、
森(物語)を通過することによって、

観念的に、
森を俯瞰したことに
なるんじゃないかな、

と思ったりした。

まるで、
Google Earthで上空から見るように。

もしかすると、
そんな森の中に、

隠れていた木の葉
(言葉や真理)
が見つかるかもしれない。

今朝の空と木。

20151222a



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