何かが開きかけている感覚

最近よく、
歩いているときなんかに、

あたまの中に
言葉があふれてくることがある。

次から次へ
文章ができあがって、
すらすら~っと流れていく。

で、それを
メモしておこうと思うんだけど、

書き留められるのは、
ほんの一部だったりする。

イメージでいうと、

子供のころ遊んだような
きれいな山の清流で
川遊びをしていて、

目の前を泳ぐ小魚を見つけた感じ。

川にきらめく小さな魚たちが、
スイミーみたいに群れをなして
泳いでいる。

おおーっと思って、
手ですくいに行くけれども、
その手には、水しか残らない。

それでも、そんな
きれいな水をすくった手が
冷たくて気持ちいい。

しばらくすると、
岩の陰に
小さなサワガニを見つける。

指を挟まれないか
どきどきしながら、
そのカニを手に取る。

もし、何かケースを持っていれば、
その中に入れてみる。

水っぽいというか、
泥っぽい臭いもあいまって、
あぁ川っていいもんだな、と。

そして、最後は
また川に帰してあげる。

そして楽しい思い出とともに
その場を立ち去る。

また来たいな、
と。
そんなイメージ。

最近は、
iPhoneで気軽にメモできるので、
いい時代になったなと思う。

そんな風にして、

スイミーの群れをイメージしながら、
きれいな水や、
サワガニのようなものを拾っていく。

最近、
次のような趣旨の言葉を見つけて、
何かが開きかけている感覚を覚えた。

自分が喜びを感じるだけでなく、
他の人も喜べるように工夫する。

これだけ見ると
なんてことはないんだけど、

ちょうど自分が
考えていることとうまくリンクした。

まずは、
自分が喜ぶ。

これは最近できるようになってきた。

というか、
子供のころはうまくできていたのに、

大人になるにつれて、
だんだんと感覚を忘れていく。

それを今また、
思い出そうとしている。

で、それだけだったら
ただ
自己完結するだけなんだけど、

それを工夫して、
その喜びを、自分以外の人にも
伝えられるようにする。

喜びや感動の伝播。

これを探っていくのは
すごく楽しそう。

ちょっと
思いつきついでに。

中高生のころに
がつんとやられた曲。

Mr.Childrenの「シーラカンス」。

アルバム『深海』(1996年発表)
に収録されている曲。

「どうしたら僕ら 答えを見つけだせるの
どんな未来を目指すも 何処に骨を埋めるも
選択肢はいくつだってある
言うなれば自由
そして僕は微かに左脳の片隅で君を待ってる」

いや~、いいよね。
ミスチル。

この曲の歌詞は、
メロディとともにがつんとやってくる。

「ある人は言う~」
のとことかもね。

もっと深掘りもしたいけど、
とりあえず思い出しただけでも
なんとなくなつかしい気分。

編曲も素晴らしく、当時の
ギター少年の気持ちを高揚させるには
十分な破壊力。

そして、最後はこう終わる。

「僕の心の中に
君が確かに住んでいたような気さえもする
ときたま僕は
僕の愛する人の中に君を探したりしてる
君を見つけだせたりする」

君、すなわちシーラカンスとは何か。

自分があたまの中に
スイミーを探しているのと同じように、

そんなシーラカンスに
思いを巡らせてみるのも楽しい。



髭剃りの哲学と忙しさのまやかし

今朝、
日経新聞の朝刊1面広告に
こんな本が紹介されていた。

『目で見る1mmの図鑑』(東京書籍)。

いいね。
タイトルの文字を見ただけで、
楽しそうな匂いがする。

最近、
朝ひげを剃っていてよく思う。

日々の行動を惰性でするよりは、
そこに何らかの楽しみを見た方が
おもしろいよね、と。

刃の角度による切れ具合や、
その音、
皮膚の感覚を楽しむ。

村上春樹さんが、
小説の中でこんな表現をしている。

「どんな髭剃りにも哲学はあるってね、どこかで読んだよ。」
(『1973年のピンボール』ジェイの台詞より)

出典は、サマセット・モームの
『剃刀の刃』という小説らしい。
「どんな髭剃りにも哲学がある」。

深いね。

どんなことからも
何かを学べるし、
何かを感じとることができる。

無意識の行動の中で見つける気づき。
そして、その積み重ね。

何人もの人が言うように、
今の現状は、

「願いがすべてかなっている」現状。

自分なりに
角度を変えて表現するなら、

過去の記憶で今を見ている。

過去に積み重ねてきた価値観や経験で、
今目の前の事象を解釈する。

同じことが起こっていても、
見る人によって、
その捉え方は異なる。

でも、結局は、
過去に思い描いてきたことの集積
でしかない。

なんとなくね。
そんな表現が思い浮かんだ。

今、ふっと、
出口光さんの『天命の暗号』に出てくる
過去の統合という言葉を思い出した。

ちょっと長くなりそうなので、
また、別の機会に。

それにしても、
今月はあわただしい。

数年前に比べたら、
ずいぶんマシにはなったけど。

実業家、堀江貴文さんが
その著書の中でこう言っている。

例えとして、
朝から晩まで働いて睡眠時間もろくに
取れていないと怒っている人に対して。

「そんな忙しさはまやかしだ。
他人に要求されるがままに自分の時間を差し出していると、忙しいように感じるかもしれない。けれど、それは目の前のことに没頭していないから、意味もなく忙しい気がしているだけだ。
そして、そもそもそんな状況が嫌ならなぜ変えようとしないのか」
(『本音で生きる』より)

まやかし。

ほんとに。
そうかもしれない。

目の前のことに没頭していない。

そんな風にして
過去に選んできた選択の結果でしかない。

本音で生きる。

堀江さんは、
ほんとにストレートに
的確なことを言う。



うっかり読んだ小説

『臆病な僕でも勇者になれた七つの教え』
を読んだ。

脚本家、
旺季志ずか(おうき・しずか) さんの小説。

心屋仁之助さんのブログで
紹介されていたので、

軽い気持ちで
うっかり読んでしまった。

いや、おもしろい。
いいわ~。

「普通」になりたいと願う少年が、
7つのストーンを集めるという
冒険ファンタジー。

「心屋のマインド」が
いっぱい入った作品とのこと。

自分の
直感の印象としては、

さとうみつろうさんの
『神様とのおしゃべり』のエッセンスを、

映画
『ネバーエンディング・ストーリー』
風に仕立てたもの、だと感じた。

あくまで、
自分個人の印象として。

ネバーエンディング・ストーリーは、
ミヒャエル・エンデの
「はてしない物語」を映画化した作品。
(原作の前半部分を中心に映画化)

日本では、
1985年に公開されている。

この映画、
子どもの頃に観たときは衝撃だった。

本の中に入って冒険する。
怖れずに門をくぐる。

なつかしい。

冒頭の
『臆病な僕でも~』。

これも、
それと同じくらいの衝撃がある。

『教え』自体は、
知識としては
知っているつもりだったけど、

それが、
ストーリーの中で出てくると、
また感じ方や入り方が
違ってくる。

たとえば、
これがアニメ化、映画化されて、

子どもだった頃の
自分が観ていたとしたら、

人生観変わっていただろうな、
と思う。

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