世界の半分を創ってみる

今日ふと、
あたまの中に浮かんだこと。

自分の身体の細胞が
言語を持っていたとして、

その細胞同士が
会話をしていたとしたら、
どんな風だろう、
と。

人間と同じような、
意思疎通をするんだろうか。

細胞A「最近、動くのが億劫で…」
細胞B「ほんとに…」
とか。

絵本に出てくる一コマみたいで
おもしろそう。

もうひとつ
思いついたこと。

ロールプレイングゲームの
ドラゴンクエスト。

その初代ドラクエで、
有名なこんな場面がある。

ラスボスの竜王(りゅうおう)が
勇者である主人公に質問する。

「もしわしの味方になれば
世界の半分を○○にやろう」
(○○は主人公の名前)

ここで、
「はい」を選べば
ゲームオーバーとなる。

「いいえ」を選ぶと、
最期のバトルが始まる。

いや、
もし、ここで

世界の半分をもらったとして、
果たしてどうするだろう、と。

ただ悪に染まるのか、
自分の理想の世界を創るのか。

仮に、
ゲームやアニメでよくあるような
世界征服をするとして、

なにをもって世界征服なのか。
具体的に、なにをするか。

結果、
庶民を虐げる君主制のような
世界になるかもしれないし、

理想社会を実現した結果、
世界は平和になりました、
となるかもしれない。

世界征服=世界平和。
とか。
たとえば。

こんな発想って、
子どもの方が
柔軟に思いつきそう。

ちなみに、
2016年には、

『ドラゴンクエストビルダーズ
アレフガルドを復活せよ』
というゲームが発売されるらしい。

これは、
初代ドラクエで、

竜王の提案に、仮に勇者が
「はい」と答えてしまった場合の
その後の世界が舞台らしい。

おもしろいね。

同時並行する
無数の世界を考えてみるのも
おもしろい。

世界を仮定していく。

ここで
思い出したことを、
ひとつ。

志教育をされている
出口光さんが、
その著書の中でこう述べていた。

天命について。
過去の統合。

「多くの人たちの人生を振り返るとき、さまざまな形ではあるが、一人ひとり、確かに人生に一貫するものが存在する。それは面白いことに、「動詞」として表現できる。」
(『天命の暗号』より)

動詞の例として、
次のようなものが挙げられている。

「挑戦する」「楽しませる」「育てる」
「伝える」「変革する」「調和する」
「応援する」「造る」「守る」など。

そして、
こうも述べている。

「もしあなたが過去の人生を肯定し、一本の経糸で繋ぐことができれば、過去の全ての経験は「今」のあなたのエネルギーとなって現れる。
さらに、その一本の延長線上に未来は存在する。」
(同書より)

この本を
最初に読んだのはもう何年も前。

当時は、
自分の中で、

「調整する」
という動詞が気になった。

周りをつなぐ存在。
ファシリテーターみたいに。

今はもう一歩進んで、

「循環させる」
という動詞が
気になっている。

冒頭の「細胞」の話。

細胞同士が
仮に意思疎通をしていたとして、

その細胞は、
自身の外に、

人間や世界というものが
存在していることに
果たして気づいているんだろうか、と。

自分の知覚できるものが
世界のすべて。

そう
思っていると思う。

細胞が続くその世界の果てには、
やはり細胞しかない。

ドラクエの例にしても、

竜王からもらえる
その世界の半分には、

銀河系(があったとして)や、
時空を超えた存在は、
含まれていないかもしれない。

あくまで、
世界の果ては、
この世界の延長でしかない。

そんな風に、

知覚できない
世界の広さや、
過去から未来へのつながりも含めて、

世界を見ことができたら、
おもしろいなと思ったりした。

そういえば、
ドラえもんの世界では、

タイムマシンがあって、
タイムパトロールが過去を変える者を
取り締まってたりするしね。

映画『ドラえもん のび太の日本誕生』
(1989年公開)では、

未来から来たギガゾンビが
日本創世記の世界を変えようとしていた。

世界の半分といっても、
考え方次第では
果てしなく広い。



歩きやすい道を歩く

ときどき、
ちょっとしたときに、
「老子」を読んだりする。

ぱらぱらっと。

今日は、
第53章の一文が気になった。

「大きな道はとても平坦で歩きやすいのに、人びとは知恵をめぐらして近道の小道をゆきたがるのだ。」
(金谷治さん『老子』より)

そのとき
頭の中でリンクしたのは、
心屋仁之助さんの本。

正確な表現は思い出せないけど、
だいたい次のような内容。

昇りのエスカレーターがあるのに、
なんで、下りのエスカレーターを
必死になって駆け上がるのか。

みたいな。

初めて読んだときは、
ちょっと衝撃だった。

よくビジネス書なんかでは、

立ち止まったら
それは死を意味する、

みたいな比喩が
使われたりする。

マグロは
泳ぐのをやめたら死んでしまう
とか。

つねに全力で駆け上がれ、
とか。

それなのに、

昇りのエスカレーターに
乗ったらいいじゃん、

みたいな発想があるんだ
というのに驚いた。

今まで
狭い世界で生きていた
と感じる。

あと、
ちょっと自分の中で、
リンクしたのが、

村上春樹さんの
短編小説の中の一文。

「それにしても変なものだな、と僕は思う。金なんていらないと思ったとたんに金が入ってくる。」
(『中国行きのスロウ・ボート』「午後の最後の芝生」より)

むかし読んだときと、
感じ方が違うように感じる。

若い頃より、
いろんなものを
俯瞰的に見られる。

今いろいろ考えているのが、

仮に「お金」というものが
世の中に存在しないとした
場合の世界のこと。

お金がないと仮定。

すると、
何か手に入れたいものが
あったとして、

それを手に入れるためには、
どうすればいいか。

魚が食べたい。
海まで魚を釣りに行くか。

水が飲みたい。
井戸から汲むか、蒸留するか。

そんな世界のあり方を
想像したりする。

お金に依存している人間を
客観視してみる、
という意味もある。

いろいろ
仮説を考えてみたい。



あるはずのものが見えないと

電車で
髪の長い女性の広告写真を見て、

息子が、
「耳ない」って言った(笑)

たしかに、
耳がないみたいに見える。
髪の毛で隠れている。

表現がストレートで
いいね。

普段見えないだけで、
実際にはいろんなものが
世の中に存在しているんだと思う。

アインシュタインなんかが
いろいろ発見していそう。

五感では感じられない
もうちょっと高次元の感覚とか。

そんなものが
あってもおかしくない。

たとえば、

二次元の平面に存在している者からは、
三次元の上下の動きが見えない。

何かが動いているかも、
といったくらいは感じるかもしれない。

そんな風に、
三次元に存在している者には
見えないだけで、

高次元の視点からは、
ものすごいものが
存在しているかもしれない。

そんな視点を
持ってみる
というだけで、

世の中がおもしろく見えるような
気がする。

元旦のお屠蘇(とそ)用に。

20151229a

御神酒(おみき)と屠蘇散(とそさん)。

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