あたまの中がおもちゃ箱〜大楠

最近、
本を読んでいて
しっくりきたこと。

よく言われるように、

感情自体に
いいも悪いもない。

たとえば嫉妬。

嫉妬という感情が悪いのではなく、
嫉妬に振り回されて起こす行動が
みっともない、

というだけ。

確かに。
おもしろい。

嫉妬をするということは、
そういう、うらやましい現実を

目の当たりにできている
ということ。

すぐ目の前まで来ている。

この辺りのことが、
最近、
しっくりきている気がする。

最近見た、
アンパンマンのキャラクター。

あざみちゃん。

とげのある言葉を発し、
それが相手の心に突き刺さる。

そんな一風変わったキャラ。
おもしろい。

発した言葉が、
三角形の形になって、
物理的にも突き刺さる。

素直になれずに悪口を言ってしまう
場合もあれば、

相手の成長を願って
悪口を言ってしまう場合もある。

一見いじわるそうでいて、
実はこころ優しい。

表面的な見え方と、
実際のところは、
やっぱり分からないものだと思う。

そんな風に、
自分の感情を外に発している様子も
見ていておもしろい。

「あざみ」というのは、
花の名前。
紫色の花と、とげのある葉が特徴。

この「あざみ」
という言葉を聞くと、
中島みゆきさんの曲を思い出す。

1作目のシングル曲
『アザミ嬢のララバイ』(1975年発表)。

歌詞とメロディ、
そしてリズムがすごく好きで、

一回思い出してしまうと、
数日はあたまの中でループしてしまう。

「ララバイ ひとりで泣いてちゃみじめよ
ララバイ 今夜はどこからかけてるの

春は菜の花 秋には桔梗
そしてあたしは いつも夜咲く アザミ」
(読み:桔梗 ききょう)

ララバイ~のフレーズから、
春は~に流れていく流れが、
ほんとにいい。

自分で曲を作るなら、
お手本にしたい曲のひとつ。

もう最近、
あたまの中が
あふれかえっている。

いい意味で。

いろんなものがやってきて、
内側からあふれ出てくる。

こどもの
おもちゃ箱みたい。

折り紙やブロック、
ねんどや、どんぐり、
アサガオの種、

そんな小さな輝きを放った
とりとめもないものが、

箱からあふれ出す。

今、
小説家、村上春樹さんの本と、
書道家、武田双雲さんの本を
並行して読んでいる。

うまい表現が思い浮かばない
んだけど、

結局は、
深い部分で
同じことを言っているように感じる。

そして、それは、
自分のありたい在り方でもある。

これは、
身体の奥深くが小さく震えるような
感覚なんだけど、

うまく言語化できない。

あるいは、
言語化すると陳腐なものに
なってしまいそう。

深い部分で
揺さぶってくる。

豊かで満たされている
という感覚や、
小さく身震いする感覚。

世の中を流れで見る
という視点から言うと、

とても心地よいものが
流れている。

村上春樹さんの
牡蠣フライ理論を借りて
自分なりに表現するならこんな感じ。

自分の言葉にしたいものを
言語化するのはむずかしくても、

たとえば、
今この瞬間を楽しむという視点から
日々を描いていけば、

結果として、
言葉にしたいことが
表現できていることになる。

そんな
感じだろうか。

もちろん、
あえて言葉にしなくても
感じるだけでもいいんだと思う。

言葉にしたい欲求が出てきたときに
そんな風にやってみようと思う。

今日のくすの木。

20151216a



あわただしくも楽しい食事

今朝、
徹夜明けっぽい若い人を見た。

電話で、
「おれ、キレッキレっすよ」
と言いながら、

歩き方が千鳥足。

ぜんぜん
キレッキレじゃないところが
かわいらしく見えた。

思考とか反応が
キレッキレ。

そんな
的確な対応や返しができる人を
見ると、いいなぁと思う。

おそらく、
思考に適度の空白があるんだと思う。

刺激に対して、
反射的に反応しない。

そのコンマ何秒が
大きな差となるんだと思う。

フランクリン・コヴィー氏が
その著書『7つの習慣』の中で、
このように述べている。

刺激と反応の間にはスペースがある。
そのスペースに、自分の反応を
選択する自由と力がある。

おおむね、
そのような趣旨。

たとえば、

雨が降っている→いやだ
いやみを言われた→気が沈む
何もしてくれない→腹が立つ

ほとんど
反射的に反応してしまっている
ことも多いと思う。

でも、実際には、
その刺激に対して
どう反応するかはその人の自由。

そこには、
自由があり、力がある。

実践することはむずかしくても、
それを知っているだけで、
ずいぶん違うものになると思う。

思考の中を
いっぱいいっぱいに
しておかない。

先日のこと。

家族で本屋さんに行って、
クリスマス用に、
絵本をラッピングしてもらった。

ところが、
だいぶん経っても
なかなか出来上がらない。

息子はおなかが空いて、
娘も、たぶんおなかが空いて、
早いに越したことはなかった。

まぁ、別に
時間がかかるのは
かまわないんだけどね。

気になったのは、

若い新人さんっぽい女の子が
一生懸命ラッピングをしている横で、

ベテランっぽい50代くらいの
女の人が、ほぼ無視に近い形で、
自分の仕事をしていたこと。

ここからは
想像。

おそらく、
過去に一度、ラッピングの
やり方を教えてあげたんだと思う。

で、今回それがうまくいかないのは、
あなたの自己責任でしょう、
と突き放す感じ。

ベテランっぽい店員さんは、
特に仕事らしい仕事があるようには
見えない。

新人さんっぽい店員さんは、
失敗しながらも
一生懸命包んでくれている。

で、けっこう経ってから、
プレゼント包装された
絵本を受け取った。

やや申し訳なさそうに、
でも、やわらかい笑顔で、

お待たせしました。
ありがとうございました!
と言ってくれた。

そして、
ありがとうございます、
と受け取った。

こんなとき、
何かうまいことが言えたら
いいんだけどな、と思う。

いろいろな
葛藤がありながら、

それでも、
丁寧に仕事をしてくれて、

価値を提供してくれる。

それに対して、
こちらも何らかの形で、
応えたい。

事実と反応の間には、
無限の自由がある。

そして、
力がある。

好意の循環。

そんなことを
考えていた。

その後、
おいしく食事を頂いた。

そこでも、
店員さんがやさしくて、
いろいろ配慮してくれたり、

息子の相手をしてくれたり、
家族の写真を撮ってくれたり。

夫婦二人のときの
ゆっくりとした食事とは違い、

あわただしくも楽しい食事。

そして、
好意のやりとり。
いいね。

先ほどの
ベテランの書店店員さんにしたって、

ほんとは、
いろいろあるんだと思う。

過去に同じ仕打ちを受けてきた、
とか、いろいろ。

そんな
こわばったものも
全部ひっくるめて、

好意なりなんなり、
循環していけるといいよね、
と思う。

刺激と反応の間のスペース。
そこにある、自由と力。

そのちょっとした意識。



“わたし以外、わたしじゃない”

アンパンマンギターが
おもしろい。

1,500円くらいの
おもちゃだけど、

一応、
4本のナイロン弦が巻かれていて、
ちゃんとペグでチューニングもできる。

ウクレレみたいな音がなる。
ポロンポロンと。

とはいっても、
やっぱりおもちゃなので
まともなチューニングはできない。

なんとかギターのテクニックを駆使して
(ビブラートとかチョーキング)

ドレミファソラシド、
っぽい音はかろうじて出るかな~、

っていうくらい。

感覚でペグを回していたら、
たまに、なんとも言えない
和音っぽい音が出る。

その不思議な和音で、
即興で歌を歌うと、
息子が喜んでくれる。

ラーメン食べたい~、とか。
はんぶんこのはんぶんこ~、とか。

昨日は
新しいラーメンの歌を歌った。

ラーメンが食べたいのに、
ラーメン屋さんがない~、ああ~、
みたいな。

たぶん、
パパ(自分)の心の声。
ラーメン食べたい(笑)

でも、それで寝る前
うとうとしてくれたので良かった。

ラーメンが食べたいのに、
ラーメン屋さんがない。

わたし以外、
わたしじゃない。

なんとなく。
響きが。

ゲスの極み乙女。の
「私以外私じゃないの」という曲が
好き。

メロディや編曲もおもしろいし、
PVも凝っている。

何より、歌詞が深い。

「私以外私じゃないの
当たり前だけどね
だから報われない気持ちも整理して
生きていたいの
普通でしょう?

(中略)
私になってみてよ、ねえ
私になってみたいんでしょう?」

いいね。

音や映像も相まって、
すべてで訴えかけてくる。

わたし以外、わたしじゃない。
当たり前だけど。

意識していないと、
いつの間にか、
他人になろうとしてしまう。

自分以外
誰になる必要もないし、
どこへ行く必要もない。

もし、違う誰かになって、
どこか遠くへ行ってしまっているなら、

今度は、自分に還る旅をしていると
思えばいいな
と思う。

今朝のもこもこの雲。

20151215a