茶室の入り口はせまい

茶室の入り口は
せまい。

それは、
こんな理由からだと言われている。

・中では身分に関係なく平等
・刀を持ったまま入れないように
・奥行きを見せる空間演出

など。

低い姿勢で入る
非日常の世界。

加えて、

入りにくさ、
というのも意味があると思う。

まず、
招かれなければ入れない。

と同時に、

その空間や人に
関心がない人を寄せつけない、

という効果も
あると思う。

ある特定の人をひきつける。

茶室に限らず、
何かしらの個性を発していれば、

その個性に共感できない人は、
近づいてこない。

誰彼なしに
好意を振りまくのではなく、

自分に近い感性を持った、
人だけを引き寄せる。

別の視点。

入り口が狭い。
ゆえに、
その奥の世界に入っていってもらえる。

小説を例にとると、

活字ばかりの
長文の中に飛び込んでもらうには、
それなりにハードルがある。

しかし、

その狭い入り口を
くぐり抜けてもらうと、

その奥には、
大いなる世界が広がっている。

その世界へようこそ、
ということになる。

現実とフィクションの境目。

その小説の文字が刻む
スピードで、
その世界を歩いてもらえる。

クラシック音楽でも、

演奏を
聴いてもらうためには、

まず、その場に、
足を運んでもらわないといけない。

きちんとした服装をして、
会場に向かい、
座席に着く。

そんな入り口。

茶室の入り口を
くぐる。

本を開く。

そんな、
日常と非日常の境目。

今日は冷え込む。

最近、
自分の中で流行っている
遊びのようなもの。

イメージとして、

呼吸するたびに、
きらきらしたものを思い浮かべる。

たとえば、

富士山の山頂で御来光(日の出)を
見たときに、身体の内側から
よろこびを感じるような。

細胞がふるえるような。
そんなイメージ。

鼻から息を吸うとき、
そのきらきらしたものも入ってきて、
全身をめぐる。

吐くときも、そのきらきらしたものが
全身をめぐって、口から漏れるように
出ていく。

その間、
欲求とリンクすることもある。

人間の三大欲求、
睡眠欲、食欲、性欲でもいいし、

もうちょっと具体的に、
これがしたい、こうありたい、
この状態が望ましい、

とかでもいい。

とにかく、
氣がめぐるイメージ。

これをやっていると、

寒さが多少なりとも
ましになる気がする。

なんの根拠もないけど。

意識が呼吸にいくからか、
呼吸で身体が温まるからか。

まぁ、そんな
遊びのようなもの。

冒頭のせまい入り口で言うと、

寒いという
せまい入り口から、
呼吸という深い世界に入る、

という感じかな。
どうだろう。



感情エネルギーのかたまり

ひさしぶりの雨。

明け方の雨は、
周りが暗くて見えづらい。

そんな中、
街灯の周りだけ雨がきらきら
輝いているのを見て、

あぁ、雨が降っているんだな、
と感じる。

そんなぼんやりとした
中だけで光る
雨が幻想的。

その辺りだけ、
地面もきらきらする。

アスファルトの上を、
細やかな雨粒がはねている。

電車の窓に、
霧のような雨がななめに飛びつく。

そんな、
限られた形の雨がおもしろい。

ときおり見かける言葉。
それは、

夢が好き、つまりそれは、
叶っていない状態が好き。

そんな考え方。
おもしろいね。

毎日、
こうなったらいいな、
と思い描きながら、

毎日、
その「こうなったらいいな」の状態を
叶えている。

こうなったらいいなと
思っている限りは、
その「こう」はやってこない。

おもしろい。

最近、
感情のことをよく考える。

たとえば、
こんな2通りのアプローチ。

嫌なことを挙げる。
→その何が嫌か
→その感情

たとえば。

営業が嫌。
→怒られる、否定される気がして嫌
→(感情)

逆のアプローチ。

欲しいものを挙げる。
→その何が好きか
→その感情

たとえば。

服がほしい。
→新しい自分になれた気がする
→(感情)

そんな感じ。
どちらも感情。

あれこれ、
頭で考えてみても、

結局、行きつく先は
感情なのかなと思う。

感情の生き物。
感情エネルギーのかたまり。

そんな考え方の
遊びみたいなものもおもしろい。

感情の話も、
こうなったらいいなの話も、

結局は、
「今、どう在るか」の話。

たとえば、

今、
限られた形の雨を楽しむ、
とか。



身近にピアノがある生活

最近いいなと思うのは、

ふと思い立ったときに、
すぐ電子ピアノに
触れられること。

子どもと遊んでいる
部屋に置いてある。

ちょっと弾きたいな
というときに、
思いつきで弾けるのがいい。

もちろん息子も興味津々なので、
一緒に弾く。

弾くというより、

ただ響きを楽しむ
という方が近いかな。

ピアノを習っていた人と違って、
自分は、
譜面を読むという習慣がないので、

初見で弾くなんて神業
って思ってしまう。

なので、
とりあえず思いついたままに、
音の響きを楽しんでみる。

ギターやベースは
手グセみたいなのがあって、
ついつい同じフレーズを弾いてしまうけど、

ピアノはまったくの素のあたまで
弾けるので新鮮。

たまに不思議な和音や、
和音の循環ループを見つけたりすると
うれしくなる。

ギターだったら、
このコードの次はこれを持ってくると
落ち着くんだろうな、

みたいに考えてしまうけど、

ピアノはその辺さっぱりなので、
それが余計に楽しい。

いかにシンプルな和音を
つなげていくか。

手探りの感覚。

理想は、
岩井俊二監督の映画に出てくるような、

シンプルな、でも奥深い、
曲を作りたい。

『PiCNiC』とか、
『FRIED DRAGON FISH』とか。
(ともに、1996年公開)

あくまでイメージ。

あと、循環ループの和音に、
歌を乗せてみてもおもしろい。

そんなこんなで、

身近に楽器があって
楽しいんだけど、

いかんせん子どもと一緒なので、

一瞬のその感覚で
弾いてしまわないと、

その楽器自体がうばわれてしまう
という(笑)

ギターにしてもベースにしても、
ドラムスティックにしても。

まぁ、でも、
それが楽しかったりするんだけど。

あ、
ちょっと思い出した。

ここからは蛇足。

さっきの
『FRIED DRAGON FISH』という
映画で、

俳優の浅野忠信さんが、
広い部屋にねころがって、
マーラーを聴くというシーンがある。

交響曲第5番。

このシーンは、
学生のときに衝撃を受けて、
今でもその絵がよみがえってくる。

いや、ただ音楽を聴いているだけ
なんだけどね。

ここから先も
ちょっと蛇足。

岩井俊二さんの映像や世界観は
エグ美しい。

人間の持つエグさと
美しさ。

その絶妙なバランスで
成り立っているように感じる。

ただうわべの
きれいさだけを描いていない。

そんなことが
今ふっと思い出された。

それだけ。