ダンドラー心理学という視点

走る電車から
通過するホームを眺め、

どうして、
駅名の看板や人の顔が
見えにくいのだろう、

と、
思ったりする。

高速で移動する車内から見ると、
駅名や人の顔がぶれて見える。

視覚の能力が追いつかないから?

視覚でとらえても脳の処理が
追いつかないから?

もしくは、

視覚も脳も的確に判別しているけど、
その解析に注ぐエネルギーが
もったいないと判断したから?

まぁ、
なんだっていいんだけど、

そんな
どうでもいいことが
おもしろいな、と思ってしまう。

タイトルの話。

段取りをする人を
「ダンドラー」と言ったりする。

自分は段取りが
あまり得意な方ではないので、

いざというときに、

あれこれ準備されていると
すごいなぁと思ってしまう。

自分は、どっちかっていうと、
そのときの勢いみたいなもので
動きたい。

なので、
身近に段取りができる人がいると、
とても助かる。

で、

そんなダンドラーさんから
してみると、

準備に時間がかかって
しまうという。

あれこれ想定して、
事前に準備して、

なんなら、
準備のための用意をして、

そのための
計画まで立てたりして。

客観的に
見ている分には、
なんだかおもしろく思えてしまう。

そんなことを考えていて、

段取りする人の
行動や思考を、

アドラー心理学の視点で
見てみたらおもしろいんじゃないか、
と。

段取りと
アドラーで、

ダンドラー心理学みたいな。

アドラー心理学を扱った書籍
『嫌われる勇気』によると、

たとえば、
目的論の話が出てくる。

簡単には、

「不安だから、外に出られない」
のではない。

「外に出たくないから、不安という
感情を作り出している」
ということになる。

それに沿うと、
たとえば日帰り旅行。

入念に
段取りするのは、

旅行先であたふたするのが
不安だから
事前に準備をするのではない。

準備という行為をしたいから
不安や不足の想定をしている。

で、
いいのかな。

ちょっと違うか。

不安だから準備するのではなく、
準備したいから不安材料を集めてくる。

実は、
外に出たくない?

いや、
やっぱり、
準備そのものが目的?

あるいは、

準備に時間がかかるので
イライラする。

イライラしているという
感情を出したいので、
入念に準備する?

まぁ、
結論はともあれ、

こんなことを
考えているのが楽しい。

ダンドラー心理学。

ここに、
劣等感の話もからめてみると
よりおもしろそう。

ちなみに
Wikipediaでは、

アドラー心理学について、
こんな記述がある。

「人間は相対的にマイナスの状態(劣等感を覚える位置)から、相対的にプラスの状態(優越感を覚える位置)を目指して行動している、と考えている。」
Wikipedia アドラー心理学より)



ベクトルの向き、外か内か

自分が今、

やっていること、
言っていること、
考えていることの、

ベクトルがどっち向きか。

外向きなのか、
内向きなのか。

書道家の武田双雲さんが、
このベクトルの向きについて
触れることがある。

たとえば、

それは、
内向きのベクトルですよね、
と。

分かりやすい例では、

それはやりたくないけど、
仕方なくやってるんです。

であれば、
内向き。

エネルギー値が低い。

本音が隠れている場合は
分かりにくい。

相手に何かをしてあげる。
その本音が、

例えば、

自分に関心を向けて欲しい、とか、
自分に自信がないから、とか、
不安だから、とか。

こういう不安感から
来ているものだったら、
エネルギーが内にこもってしまう。

日ごろ外で
いろんな人と接していて、

ときどき、
すごくベクトルが内向きな
人とお会いする。

その人が
行動をするにあたり、

自分では決めずに、
こちらに判断をゆだねてくる。

もし自分で決めて失敗すると
嫌だから、
というベクトル。

もし
こちらに判断をゆだねて、

それで失敗したら、
それは判断が悪かった、とできる。

どんなコミュニティでも
あると思うけど、

自分が決定者になりたくないので、
話が堂々巡りする。

Aさんがこうしたら?って言ってたよ。
それは、Bさんの管轄だから。
でも、Cさんが最後決めるからね。
Dさんにも耳入れしとかないと。
それは、Eさんの仕事でしょ。

みたいな。

極端な
例だけど。

最近聴いた話。
感謝について。

あることに不満があるとする。
で、そのことに
不満を持っている限りは、

仮にそのことが解決しても、
また別の形でやってくる。

逆に、
不満を持っていること以外に
感謝できて、

結果として、
その不満だったことに対しても、
気づかせてくれてありがとう、

と言えたら、
それと同種の問題はやってこない。

というもの。

たとえば、
体のある部分が調子が悪かったとして、

でも、
それ以外の手足、頭、
その他もろもろは、

すごく順調に
活動をしてくれている。

また例えば、
Aさんとそりが合わない。

でも、

Bさんと、Cさんと
Dさんと、Eさんと、Fさんと
Gさんとはうまくいっている。

これは、
ありがたいことだよねぇ、と。

それに気づかせてくれた
Aさんありがとう、

と。

この話を聴いて、
ベクトルが外向きだなぁ、
と感じた。

言ってることは
簡単なんだけど、

意味合いは深いな
と思う。

これを普段やろうと思っても、
最初はむずかしいかもしれない。

なので、
とりあえず、

今、自分のベクトルが
どっち向きか、

っていうのを
意識するだけでも
いいんじゃないかな、と思う。

ちなみに、
今この文章を書いている
自分は、

なんか知らないけど、
言葉が次から次へと、

どんどんあふれてきて、
たぶん、

外向きなんだろうなぁ、
と思っている。



劣等感をアートする

先日、
道を歩いていて、

ふと、
こんな言葉が降ってきた。

・劣等感をアートする
(劣等感を科学する)

人間、誰しも、
多かれ少なかれ持っている
劣等感。

本人が自覚しているか否か、
多少なりともあるか、
全くないか、

それはさておき。

人間が普遍的に、
潜在的に持っているであろう、
劣等感に、

何らかの形で
フォーカスする。

それには、
通常、様々な角度がある。

カウンセリング。
文学。
人間関係(他社との比較)。

そこで、
たとえば、

アートという角度で、

その普遍的な劣等感というもの
にアプローチしてみては、
どうだろうか、と。

抽象的すぎて、
うまく言葉にしづらいけど、

とにかく、
そんな言葉が降ってきた。

それは、

アートという表現じゃなくても、
科学、という表現でもいい。

世の中には、
積極的に解決しようと思わなくても、

気づくだけで
解決するということがある。
(と思う。)

表現方法が
どうであれ、

アートというのは、
解決を主としているのではない、
と感じる。

その表現者が、
表現したくてしたくて
たまらなかったことが、

作品として形をなす。

そして、
それを見た人が、

結果として、
何らかの示唆を得る
(ことがある)。

そして、
それは結果として、

受け取った人の問題解決に
なっているかもしれない。

うまく表現できないけど、
要は、

人類普遍の劣等感という
ものに焦点をあて、

それを、
建設的な表現(アートなど)で
何かを形づくることで、

結果として、
何らかの問題解決につながるのでは、
と思ったということ。

これを、

カウンセラーさんであれば、
カウンセリングという手法で、
形づくる。

小説家は、
小説の中でそれを描写する。

人間関係を教える立場の人は、
その文脈で表現をする。

そんな要領で、
まったく別の角度から、

アプローチできないかな、
と。

劣等感を、
比較(相対性)、
という視点で見れば、

たとえば、
相対性理論みたいな表現でもいい。

アインシュタイン氏の
相対性理論に関連づけて、

比較心理を
ひも解いてみてもおもしろい。