役に立つ記事を書きたいということは、困っている人が必要になるということです

日常の
ささいな動作を

いかに楽しむか。

そんなことを
考えています。

パパちです。

◇◇◇

楽しいことをしようとすると
ともすると

非日常の体験をするとか
どこか遠くへ出かけるとか

そんな風に
思いますけど

ちょっとした
日々の動きを
見ているだけでも楽しいです。

歩いているときの
筋肉の動き

息子のジャンプの飛距離

娘の
いかにも赤ちゃんという動き。

そんな
ちょっとしたことを
観察していると

いくらでも
楽しみやよろこびが
あふれてくるように感じます。

◇◇◇

ブログを書くなら
役に立つことを書きたい

というのが
一般的な考えだと思います。

もちろん

ただの記録とか
ほんとに日記
というのもあるでしょう。

ぼくが今考えているのは

まったく何の役にも立たない
記事なりブログがあっても
おもしろいな

ということです。

先日
たまたま見たあるブログで

今日から役に立たない記事を書きます

と宣言している
ものがありました。

おもしろいですよね。

なんとなく
思うのは

役に立つ記事を書きたいということは
困っている人が必要になる

ということです。

つまり
その自分の記事を読んで
誰かに役立って欲しい

ということは

世の中には
困っている人がいて
自分はそれを手助けできる

という考え方から
きています。

でも

困っている人ありきの
前提ってどうなんだろう
と。

角度を間違えると

不安をあおる営業に近い
ような形にもなってしまいます。

こんなに大変なことがおこっています
なのでこの商品を買いましょう

とか
そんなイメージを抱いて
しまうんです。

もちろん
それが
いいとかダメだとか

そういう
ジャッジはまた別の話です。

ややこしいですね。

ちょっと
話を進めます。

ぼくとしては
誰の役にも立たない文章を
書いているかもしれません。

ただただ
楽しんで書きたいことを
書いているだけです。

その上で
結果として

誰かひとりでも
それをおもしろがってくれたり
何かの助けになれば

それは
ほんとうにうれしいことです。

でも
そもそもの話として

最初から
誰も困っていなかった

という世界であって欲しいな
というのが願いです。



その「ざわざわ」をちゃんと通過しないことには意味ないんでしょうね

今朝
18歳の黒ギャル支配人こと

園田好(そのだこのみ)さんの
記事を読んで

朝「窓を開ける」

とあったので
開けてみました。

パパちです。

◇◇◇

換気って
けっこう好きなんですよね。

でも
習慣にしないと
すぐに忘れちゃいます。

部屋の中に
朝の空気が流れて
いい感じです。

◇◇◇

日々の生活の中で
ざわざわすることってありますよね。

はい
ざわざわします。

特定の誰かに対する
ちょっとしたイライラだったり

それを気にする
自分自身へのモヤモヤ
だったり。

それぞれの
ざわざわは大したことないんです。

ほんの小さなものです。
意識しないと気づかないほどです。

でも
それを
まぁいっか

と放置しておくと

見えないブラックボックスの中で
そのざわざわが

少しずつ増殖していくようにも
感じます。

腐敗というんですかね
感情の停滞です。

そんなとき

そのざわざわした感情を
自分自身として
認めてあげる。

そんなことが
大事なのかなと感じています。

可視化してあげる。
存在を認めてあげる。
そして流れを作ってあげる。

そんなとき
まったく気づかなかったり

ささいなことだと
するっとスルーしてしまうと

結局またちがう形で
そのざわざわと対面することに
なるんだろうなと思います。

ちゃんと
ざわざわしないことには

同じところを
ぐるぐるぐるぐる
堂々巡りしていくんでしょうね。

頭のかたすみで
だれかが

それに気づけって言ってるのかも
しれません。

別の角度から言うと
内観です。

ちょっと話は飛びますけど

こんな100%感情に関することを
現代の科学や
システム的な見地から

よりよく
応用できないものかな
と思います。

内観アプリとか
感情の波形を計測するリストバンドとか。

いや
でもやっぱり

アナログの方がいいのかな。
どうなんでしょうね。



最初にドアを透明にしようと思った人ってすごいですよね

何気ない日常が
スペシャルな一日。

そんな風にして
日々を送っています。

パパちです。

◇◇◇

日常の家のごはんでも
何でも

これは
パパのスペシャルバージョン!
と言うと

息子もテンションが
あがったりします。

ちょっと何かを
ちょんちょんとする仕草をして
ごはんをあげる

とか

さもすごそうな動きでもって
モノを手渡してあげる

とかすると
思いのほか
楽しんでもらえます。

手品やマジックでいうところの

おまじないの呪文
みたいなもんですかね。

タネも仕掛けもありません
あら不思議

とか
そんなイメージです。

◇◇◇

今日ふと
自動ドアを見て思いました。

最初に
ドアを透明にしようと思った人って
すごいですよね。

ドアなのに中が透けて見えるって
なんなんだろう
と。

日本建築でいうなら
ガラス戸とかが
それにあたるんですかね。

詳しいことは
よく分かりません。

単純に
採光の工夫かもしれません。

それでも
すごいですよね。

閉ざしているのに中を見せる。
あるいは
外が見える。

そういえば
祖父の家が昔ながらの造りの家で

縁側の廊下から
ガラス戸越しに庭が見えました。

いいですよね。
庭の文化。

閉ざしているのに
閉じきっていないというか。

昨今
セキュリティについて
いろいろ言われていますけど

いっそのこと
フルオープンにすることで
結果的に保護される

とか
何かないもんですかね。

ちょっと趣旨は
違うかもしれませんが、

故松下幸之助さんの
水道哲学のように

価値あるものを
水道の水のようにあたり前にすれば
そもそも保護する必要すらなくなる

というくらいの
発想ができないものかと
考えています。

漠然としすぎですかね。

それでも
世の中がうまく流れる
という循環の視点から

あれこれ
考えるのが好きなんです。