果物の甘い匂いと、老子の内へ内へという教え

香りや匂いって
いいなと思うことがあります。

朝の
コーヒーの香りとか

スーパーの果物コーナーの
甘い匂いとか。

パパちです。

◇◇◇

先日
スーパーに寄った際

果物の売り場を歩いていると

なんとも
なつかしいような
匂いがしました。

記憶がふっとよみがえる感じです。

おそらく子どもの頃
おばあちゃんと一緒に行った
果物屋さんの匂いですね。

◇◇◇

『老子』に
「戸(こ)を出(い)でずして」
という章があります。

「戸口から一歩も出ないでいて、世界のすべてのことが知られ、窓から外をのぞきもしないで、自然界の法則がよくわかる。外に出かけることが遠ければ遠いほど、知ることはますます少なくなっていくものだ。それゆえ「道」と一体になった聖人は出歩かないでいてすべてを知り、見ないでいてすべてをはっきりとわきまえ、何もしないでいてすべてを成しとげる。」
(金谷治氏『老子』第47章より)

冒頭の香りと
老子のこの章が微妙にリンクしました。

特別どこかに
行くわけではないのに

人は
視覚や聴覚
嗅覚などによって

過去の記憶だったり
まだ見ぬ世界を感じたりすることが
できます。

たまに思うのは

実は
人は「すべて」を知っていて

たまたま
あるきっかけで

忘れていた記憶を
思い出すということを
してるんじゃないだろうか

ということです。

老子の
「戸(こ)を出(い)でずして」
というのは

自分の感覚を思い出せと
言っているように
感じました。

「Don’t think , feel!」

視覚
聴覚
嗅覚
触覚
味覚
何かを感じる感覚

それらをフラットに開いて
内へ内へと
入って行きなさいと。

そんな風に感じました。

人は
ほんとは

何もかもを知っているんじゃなか
と感じます。



見るもの触れるものすべてに想像をはるかに超えた何かを感じとる

今朝
二回ちょっと外に出たんですが

外の空気の違いに
おどろきました。

パパちです。

◇◇◇

最初外に出たとき

まるで
避暑地にきたかのような

空気全体が澄んでいるような
さわやかな風を感じました。

そして
もう一度出てみると
今度は

太陽のあたたかさを
全身で感じたような
自然の力強さを感じました。

同じ早朝なんですけどね。
ほんの15分くらいの差。

こうも
違うものなんですね。

◇◇◇

最近
アニミズムという言葉が

ちらちらと
目に入ってきます。

Wikipediaでいうところの

「アニミズム(英語: animism)とは、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方。」

という考え方です。

日本でいうと
「八百万の神(やおよろずのかみ)」とか
「森羅万象(しんらばんしょう)」

という言葉が
近いかもしれません。

自然(に限らず)すべてに
神が宿っている

あるいは
神性を感じる
という考え方。

今朝の空気にしても

自分を包み込む
空気全体が

何らかの神性を帯びているかのような
心地よさを感じました。

また
背中から浴びた日のあたたかさも
自然界の

神々しいまでの
パワーを感じました。

こう書くと
ちょっと大げさな
感じもしますが

日々の生活の中で

人の理解をはるかに超えた
自然の大きさを
感じることがあります。

それは
都市部でも同じだと思います。

もちろん
文明のほとんど入らない
自然の環境とは比にならないでしょう。

でも
見るもの触れるものすべてが
人の理解を超えている。

そんな感覚に気づくというのも
おもしろいものです。

今の生活って
これが当たり前と思うことが
多いですが

太古の昔には

あるいは
当時の生き方を続けている
奥地の原住民の人なんかは

人間と自然が
一体となった
そもそもあるべき在り方で

過ごしているんだろうな

想像したりします。

文明が入ると
一定の意図が入ってきたり
しますからね。

こうすると支配しやすい
とか。

ともあれ

見るもの触れるものすべてに
想像をはるかに超えた
何かを感じとる

というのも
おもしろいものです。



身体の柔軟性がない、「だからこそ」その中で喜びを見つけていくゲーム

今日も身体が
筋肉痛です。

パパちです。

◇◇◇

昨日の公園か
あるいは
おとといのプールか。

息子についていくだけで
いい運動になります。

◇◇◇

昨日公園で

息子が
小学生の男の子が遊んでいる中に
入りたそうにしていました。

もう動きがすごい。

小さい足場の上を
飛んだり跳ねたり
動き回る。

そういや自分も
小学生の頃はこんなことしてたよなぁ
と思ったりしました。

身体能力が高い。

筋力もありますけど
やっぱり今と柔軟性が違いますね。

今は
もう硬い硬い。

タレントの武井壮さんは

自分のイメージと
実際の動きの差を埋めていく
ということを

子どもの頃にやっていたそうです。

イメージではできているのに
なぜホームランが打てないんだろう
と。

その発想がすごいですよね。

それでいうと
今のパパちの身体は
理想のイメージとは遠いですね。

逆に言うと
このくらいしか動けない
っていうのが

分かっているということが
イメージ通りなのかもしれません。

そういえば
先日

Facebookで
神職関係?の方の文章が
深かったです。

簡単に言うと

人は神というが
体という制限を設けることで
魂を磨くということをしている

という内容。

おそらく日本の八百万の神の考え方
だと思うんですが

人はそれぞれが神であると。
(分け御霊<わけみたま>の話かな)

そして
(本来自在のはずが)
人間の肉体を持つことで制限だらけ。

しかし
その中で喜びを見つけていくという
御魂磨き(みたまみがき)をしているのだ。

という
解釈でいいと思います。

おもしろいですよね。

本来どうとでもできるのに
あえて制限だらけの人間の肉体をつかって
その中で喜びを見つけていくことで

自らの魂を
磨いている。

冒頭の公園でいうと

今の自分という制限の中で
いかに子どもと触れ合えるかという
喜びを見つけるゲームをしている

という解釈もできます。

子だった頃ほど
体の柔軟性がない。

だからこそ
見出せる喜び。

この「だからこそ」という発想が
大事なんじゃないかな
と思います。