ささいなことで幸福な気持ちになるものなんでしょう

今朝
空を見ると

秋っぽい雲が出ていました。

日々季節は
移ろいでいきますね。

パパちです。

◇◇◇

朝の空を見ていると

本当に毎日
違った表情をしています。

◇◇◇

村上春樹さんの小説
『海辺のカフカ』の中に

少年が香川の
うどんを食べる描写があります。

ストーリーのからみもあるので
前後の文脈は端折りますが
この何気ないシーンが好きです。

「駅の近くにあるうどん屋に入って腹ごしらえをする。見まわしてたまたま目についたところに入っただけだ。(中略)あまりにうまかったのでおかわりをする。おかげで久しぶりに満腹になり、幸福な気持ちになる。それから駅前の広場のベンチに座り、晴れあがった空を見あげる。僕は自由なのだと思う。僕はここにいて、空を流れる雲のようにひとりぼっちで自由なのだ。」
(『海辺のカフカ』より)

満腹になり
幸福な気持ちになる。

ひとりぼっちで自由。

いいですね
こういう心境。

このシーンだけ切り取ってみると
ほんとにささいなことです。

おいしいうどんを食べて満腹になり
空を眺めて自由を感じる。

そういう意味では
自分も
日々同じことを感じていますね。

毎日のご飯がおいしくて
朝見あげる空がすがすがしい。

これを
日々きちんと感じていくだけでも

幸福感や
自由を
感じられるんじゃないかなと思います。

そう思うと
きっかけは
ささいなことですね。



リアルなポケモンGOのゲームとかあったら楽しいですよね

今朝は
空気がカラッとしていますね。

パパちです。

◇◇◇

ここ数日
湿気っぽかったので

空気が軽い気がしますね。

◇◇◇

街中や電車の中で
ポケモンGOをしている人を
見かけます。

あれは
ポケモンの世界を楽しんで
いるわけですけど

リアルなポケモンGO的な
ゲームがあったら楽しいですよね。

スマホの中で
現実世界を生きるというゲーム。

スマホの中の主人公が

子どもから大人になって
傷ついて
感情を揺さぶられて

喜びを見つけて
出会って
別れて

幸せも不幸も含めた
いろんな出来事や感情を楽しむ。

もちろん
リアルを意識したゲームは
これまでもありました。

育てるという
「たまごっち」とか

疑似恋愛の
「ときめきメモリアル」とか

街を作る
「シムシティ」とか。

ポケモンGOを見ていると
もっとリアルな
ゲームができそうですよね。

さらに言うと

現実に今生きている
この世界が

実は
ひとつのシミュレーションゲームだ
という研究もされているそうですね。


現に生きている我々がゲームの登場人物。

そして
それを俯瞰で見ている誰かがいる。

おもしろいですね。

入れ子状の
構造。

例えば

パパちがスマホでゲームをする。
そして
そのパパちを操作する誰かがいる。

パパちという
現実世界を楽しむという名の
もうひとつのゲーム。

別の言い方をすると

もしかすると
今のパパちもゲームの中で
誰かに操作されているのかもしれない。

そう考えると
おもしろいですね。

逆に言うと

スマホの中の
ゲームの主人公も
自分のスマホの中でゲームをしている。

なんか
鏡の中の鏡の中の鏡の中の…

という感じで
続いていく
入れ子状の連続世界。

想像するだけで楽しいです。



そうは言っても、自分で選んだゲームじゃないか

今朝
夢で

洗っている最中の洗濯機の中に入って
歯を磨いているところで
目が覚めました。

パパちです。

◇◇◇

何かをきれいにしたい
という
願望の表れでしょうかね。

それとも
心が洗われるようなことを
したいんでしょうか。

◇◇◇

そして
目覚めのぼーっとしているときに

こんな言葉が
ふと頭の中に浮かびました。

「自分で選んだゲームじゃないか」

結局は
人生
選択の連続ですよね。

例えば
ドラゴンクエストという
ゲームをしようと思って

ゲームを買って
プレイして
何か壁にぶつかったとしても

結局は
自分が選んだゲームじゃないか
ということです。

自分がそうしたいと思って
選んだ結果が
目の前に現れているだけです。

ところで

さっき「選択の連続」
と打とうとしたら

「洗濯」
と自動変換されました。

冒頭に
洗濯機のことを書いたからですね。

人生は洗濯の連続。

なんか
妙に深みがあっておもしろいですね。

日々
洗濯を繰り返すがごとく

日常の行為の連続こそが
人生である

みたいな。

非日常を追い求めたとしても
結局それは
非日常でしかないですからね。

日々の大半を占める日常で
どう
選んだゲームを楽しむか

やっぱり
ここなんじゃないかと思います。